『ジョーカー』感想・紹介・レビュー【届くことのない声】
ジョーカー
2019年に公開されたアメリカ合衆国のスリラー映画。
監督・脚本をトッド・フィリップス。共同脚本をスコット・シルヴァーが務めた。
出演
- ホアキン・フェニックス
- ロバート・デ・ニーロ
- ザジー・ビーツ
- フランセス・コンロイ
- ブレット・カレン
- ビル・キャンプ
序盤のあらすじ
時は1981年。
財政難によって荒んだゴッサムシティで暮らすアーサー・フレックは、母親ペニーの「どんな時でも笑顔で」という言葉を胸に、アルバイトの大道芸人(ピエロ)の仕事に勤しんでいた。
発作的に笑い出してしまう病気によって精神安定剤を手放せないうえ、定期的にカウンセリングを受けねばならない自身の現状に苦しみつつ、年老いた母を養いながら2人で生活していた。
アーサーには夢があった。
一流のコメディアンになって人々を笑わせ、注目を浴びたい。日々思いついたネタをノートへ書き記し、尊敬する大物芸人のマレー・フランクリンが司会を務めるトークショーで脚光を浴びる自分の姿を夢想していた。
引用:Wikipedia
今作はDCコミックス『バットマン』に登場する代表的なスーパーヴィラン(悪役)でタイトルにもなっている「ジョーカー」という1人のメフィストとも言える存在が誕生するまでの経緯が描かれている。
1つ注意点としてはジョーカーがジョーカーになるまでの経緯を描いてはいるが、DCコミックスが展開している『DCエクステンデッド・ユニバース』やこれまでに制作された『バットマン』の映画やドラマとは世界観を共有しない完全な単発映画だということ。
そして『バットマン』に出てくるジョーカーは明確なオリジンが示されてない上に、ジョーカー自身が狂人であるために語るたび出てくるたびに変化している。
そしてもっとも有名なエピソードとして「元は売れないコメディアンで犯罪を犯したところをバットマンから逃げる途中に薬品の溶液に落下し、白い肌に赤い唇に緑の髪に常時笑みをこぼしているような裂けた口の姿になった」というものがある。
本作は原作コミックや他の映像作品との関連性は撤廃して、一部を踏襲しながらも本作のジョーカーを「信用の出来ない語り部」という設定にすることで、この作品で語られるオリジンが事実であるかどうかは全くの不明という原作コミックの設定を引用するような形を取っている。
そしてそのジョーカーを演じたのが、ホアキン・フェニックス。
正直言うと『ダークナイト』の圧巻の演技と役作りによって唯一無二の存在を作り上げ、史上4番目の若さでアカデミー助演男優賞を受賞したものの、28歳でこの世を去ってしまったヒース・レジャー(受賞したのは故人になってから)の印象が強く残っていたのもあり、当時は彼以外にジョーカーを演じきれる人間は居ないとすら思っていた。
しかし今作のジョーカーはまさしく”新たなジョーカー”を見事に創造出来ていて、演出や脚本は勿論の事ホアキン・フェニックス自身もこの撮影にあたって80kgあった体重を「1日をりんご1個で過ごす」といった過酷な食事制限によって60㎏以下にまでするなどしたのもあって、元から存在するジョーカーの根幹にある物は踏襲しつつも異なる面も見ることの出来る新たな存在になっている。
それら制作陣の熱意と努力が功を成し、のめり込んでしまう事が出来るほどの作品に仕上がっている。
人によっては自分自身が抱える苦悩や、今いる境遇と作品が合致し共感してしまうとアーサーのことについて考え、社会の中でのアイデンティティの確立、善悪の判断に区別などに様々な感情が頭の中を駆け巡ってしまうかもしれない。
そういう意味では賛否両論が物凄く激しく分かれるだろうし、万人に勧められるか?と問われたら素直に首を縦には振りづらい。
しかし、観た結果今作に対する評価が賛否どちらだとしても得る物は多いと思う。
現代というネット社会の中で、ネットの中でも外でも様々な場所で誰にも届くことのない助けを求める声をあげている人々のその”声”をそのまま映像化したかのようで、視聴者の心をこれでもかとグサグサと突き刺してくるだろう。
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『スポットライト 世紀のスクープ』感想・紹介・レビュー【おぞましい事実とジャーナリズム】
スポットライト 世紀のスクープ
2015年に公開されたアメリカ合衆国の伝記ドラマ映画。
監督・脚本をトム・マッカーシー、共同脚本をジョシュ・シンガーが務めた。
出演
- マーク・ラファロ
- マイケル・キートン
- レイチェル・マクアダムス
- リーヴ・シュレイバー
- ジョン・スラッテリー
- スタンリー・トゥッチ
この作品は、2003年に公益報道部門でピューリッツァー賞を受賞したボストン・グローブ紙の報道に基づき、アメリカ合衆国の新聞社に存在する調査報道班として最も長い歴史を持つ同紙の「スポットライト」チームによって明らかにされた、ボストンとその周辺地域で起こっていたカトリック司祭による性的虐待事件に関する報道の顛末を描いたもの。
カトリック教会の性的虐待事件とは
問題の性質上、長きにわたって明るみに出ていなかったが、2002年にアメリカ合衆国のメディアが大々的にとりあげたことをきっかけに多くの報道が行われ、一部は訴訟に発展した。
この種の事件が起こっていたのは孤児院や学校、神学校など司祭や修道者、施設関係者と子供たちが共同生活を送る施設であることが多かった。
なお、メディアでは「児童への性的虐待」と報道されても、多くの場合は児童ではなく、成人である神学生のような人への虐待である。
アメリカに続いて、アイルランド、メキシコ、オーストリア といった国々でも訴訟が起き、イギリス、オーストラリア、オランダ、スイス、ドイツ、ノルウェー においても行われてきた性的虐待が問題となっている。
アメリカやアイルランド、スコットランドでは教区司教が引責辞任に追い込まれるという異例の事態となった。
これら一連の騒動により、アメリカなどでは一度でも児童への性的虐待が発覚した聖職者は再任することができなくなったが、職場を追われた神父らが、メディアなどの監視が行き届かない南米など発展途上国で同様に聖職に就き、同様の事件を起こしていることがわかり、新たな問題になっている。
引用:Wikipedia
「カトリック教」というもの「宗教」というものを信仰する人々にとっては、どれだけこの事件が衝撃的な物だったかは想像するに容易い。
日本という、世界的に見れば無宗教な人が多い国に住んでいてもその驚きはニュースとともに耳に入ってきた。
この作品を観たり実際にこの事件について調べれば調べるほどその”酷さ””恐ろしさ””醜さ”を目の当たりにする。
カトリックや宗教自体を批判するような思惑は一切ないが、教会組織そのものの根本的な問題だろうし、最早おぞましい。
こういった目を疑うようなおぞましい事実に基づいて物語を作り上げて、報道に関する部分も細部まで丁寧に誠実に力強く事実をなぞっていくことで、モデルとなった人物に敬意を表したくなるほどのドラマとして成立している。
その一方で上質で重厚なドラマではあるのだが、中身はドラマチックでも何でもなく非常に生々しく描写されているのもあって、被害者役が役に見えないシーンすらあった。
自分には想像もできない、想像する資格もないほどの恐怖や苦しみを持って生きてきたのだと思うと、シーンの空気感や雰囲気に飲まれてしまいその場に自分が居て実際に聞いているかのような錯覚を覚えた。
作品の様々なシーンから懸命な調査をし困難に立ち向かった記者と弁護士、想像を絶する恐怖を味わったであろう被害者の思いの強さを感じ取ることの出来る作りになっていて、そこには当事者しか窺い知ることの出来ない問題の重さ、根深さが垣間見える。
序盤のあらすじ
2001年、マサチューセッツ州ボストンの日刊紙『ボストン・グローブ』はマーティ・バロンを新編集長として迎える。
バロンは同紙の少数精鋭取材チーム「スポットライト」のウォルター・ロビンソンと会いゲーガン神父の子供への性的虐待事件をチームで調査し記事にするよう持ちかける。
チームは進行中の調査を中断し取材に取り掛かる。
当初、チームは何度も異動させられた一人の神父を追うが、次第にマサチューセッツ州でカトリック教会が性的虐待事件を隠蔽するパターンに気づく。
引用:Wikipedia
念のため注意して欲しいのだが、実際の事件やそれに伴う出来事に基づいて描かれてはいるがドキュメンタリー映画ではないので、記事として事件が明るみになったのちに社会の反発を含む多くの困難を経て、2006年に出されたベネディクト16世からの公式声明に至るまでの経緯は描かれていない。
これは、いたずらにカトリック教会や宗教を貶める意図がないことや、被害者の人々の告発にかける壮絶な思いやおぞましい事実を描くという事に重点を置いた結果そうなっているのだと思う。
実際その目的は見事達成されている。
事件を知らない人は勿論、ニュースなどで目にしたことがある人ですらこの作品を観て愕然とするだろう。
その被害者の数に、加害者である聖職者の数に。
そして何より、教会という組織のみならずそれに伴うコミュニティや信者、果てには被害者家族までもがその隠蔽に協力していたという目を耳を疑う事実。
映画的に過ぎた演出をするわけでもなく、確かに存在した事実を淡々と描いていく演出は物足りなさを感じてしまう人が居るかもしれないが、それは裏を返せば丁寧に真摯に事実に向き合い掘り下げていくボストン・グローブ紙の記者たちへの敬意の表れだと感じた。
カトリック教会が抱える大罪をリアルに生々しく描くとともに、記者たちのジャーナリズムをこれでもかと感じさせてくれる素晴らしい作品。
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『ミッドナイト・イン・パリ』感想・紹介・レビュー【甘く感傷的で可笑しく魅力的】
ミッドナイト・イン・パリ
2011年に公開されたスペインのロマンスファンタジー映画。
監督・脚本をウディ・アレンが務めた。
出演
- オーウェン・ウィルソン
- レイチェル・マクアダムス
- カート・フラー
- ミミ・ケネディ
- マイケル・シーン
- ニーナ・アリアンダ
- カルラ・ブルーニ
- マリオン・コティヤール
今作を物凄く簡単に説明してしまえば、旅行でパリを訪れた主人公が夜になるたびに1920年代のパリにタイムスリップして、ヘミングウェイやピカソ、フィッツジェラルド夫妻を始めとした歴史的な偉人たちと知り合いになるというファンタジー映画。
これだけ聞くと良くある典型的で陳腐なタイムスリップ物と思ってしまう人も居るとは思うのだが、そんなことは一切ない。
タイムスリップをするにはするのだが、そこは正直どうでもよくて主人公がその時代で純粋に楽しんでいるさまを観ることが出来る。
視聴者は主人公と同じ感覚、タイミングで偉人たちとの出会いに驚きや感動を感じ、2つの時代のパリの街並みが魅せる美しさに魅了される。
出てくる偉人によっては知らない人も居るかもしれないが、その偉人たちの知識があるほど色々な楽しみ方が有り、1度視聴したのちに出てきた偉人たちを調べて再度視聴するとまた違う発見が出来、何度も楽しむことが出来るだろう。
ただその反面、ストーリーや内容的には特にこれといって秀でたものは感じない。
何かしらのメッセージを伝えようとしている作品というよりも、街並みを始めとする映像美とシーンに合った音楽を楽しむノスタルジックなおとぎ話として観たほうが楽しめる。
序盤のあらすじ
2010年、ハリウッドの映画脚本家でありながらも、小説家を目指し処女小説の執筆に悪戦苦闘中のギル・ペンダー (オーウェン・ウィルソン) は婚約者のイネス (レイチェル・マクアダムス) とその裕福な両親とともにパリを訪れる。
ギルはパリに住みたいとさえ考えているが、イネスはマリブに住むと言って聞いてくれない。
2人はイネスの友人ポール (マイケル・シーン) と遭遇し、ともに街を回る。
イネスはポールを気に入っているものの、彼が偉そうに語る歴史や芸術の薀蓄には間違いが多く、インテリぶったポールがギルにはどうにも鼻持ちならない。
ある夜の12時、ギルは酒に酔ったままパリの街をうろついていると、アンティークカーが止まり、車中の1920年代風ルネサンス期の格好をした男女がギルを誘う。
引用:Wikipedia
この作品、ある程度視聴者を選ぶかもしれない。
いわゆる「パリへの憧れ」的な物を現在持っていなくても子供の頃でもいいので、1度それを持ったことがある人であればかなり刺さる。
作品の世界観に没入し、タイムスリップ後に出会う様々な偉人達ってこんな感じの人だったのかなぁとか観ながら色々な事を考えたり、その中で創作意欲を掻き立てられて情熱を取り戻していく主人公に感情移入することも出来るだろう。
「憧れ」がない場合は、街並みなどの美しさはそこまで魅力に感じないだろうし、内容的には成立はしてるものの目新しさは無く展開を想像出来るのもあって面白いと思えるかと言われると難しい。
ただ驚くような展開や派手な演出ではなく、軽やかで大人なファンタジーとして考えると物凄く良い出来だと思うので、そういった作品を求める人にはこれ以上ないくらいピッタリ。
小ネタ
監督・脚本を務めたウディ・アレンは「パリの真夜中」というタイトルを先に思いついて、そこからプロットを構築するようにして脚本を執筆した。
美術館の案内人を務めたカルラ・ブルーニはサルコジ大統領の妻。
映画ポスターには19世紀の画家ゴッホの『星月夜』が部分的ではあるが使用されている。
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『真珠の耳飾りの少女』感想・紹介・レビュー【光と影、動と静】
真珠の耳飾りの少女
2003年に公開されたイギリス・ルクセンブルクのドラマ映画。
監督をピーター・ウェーバー、脚本をオリヴィア・ヘトリードが務めた。
出演
- スカーレット・ヨハンソン
- コリン・ファース
- トム・ウィルキンソン
- キリアン・マーフィー
- エッシー・デイヴィス
今作は、ヨハネス・フェルメールを代表する絵画の1つ「真珠の耳飾りの少女」から着想を得て、トレイシー・シュヴァリエによって書き上げられた同名小説を映画化した作品。
ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer) は、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)を代表する画家の1人で、バロック期を代表する画家の1人でもある。
映像のような写実的な手法と綿密な空間構成、そして何より光による巧みな質感表現を特徴とするのもあり「光の魔術師」とも呼ばれる。
本名ヤン・ファン・デル・メール・ファン・デルフト (Jan van der Meer van Delft)。
終始、フェルメール作品でよく見ることの出来る特徴的な色彩や構図を映像の中で上手く表現しているのもあって、絵画の世界をそのまま切り取って繋いで映像にしているとすら思えるほどの映像美に目を奪われるとともに酔いしれることが出来る。
絵画で描かれている少女をスカーレット・ヨハンソンが演じているのだが、当時10代というのもあってその初々しさと謎めいた美しさが存分に表現されている。
「真珠の耳飾りの少女」に描かれた少女の正体は不明で、これから先も解明されることは無いのだろうと思うが、今作を観る事で誰しもがその正体を考え想像を掻き立てられる。
この絵画だけでなく、有名な絵画は色々な謎があったり情報が不足している場合が多い。
意図的にそうしたのかは分からないが、映画での表現方法も決して多くを語らずにその映像や俳優陣の表情、雰囲気で魅せてくる。
この登場人物の行動や言動、様々なシーンの意味を説明しないことで謎多き作品を表現している。
序盤のあらすじ
1665年のオランダ、デルフトの街。
タイル絵師の父を持つグリートは、画家のフェルメールの家に下働きとして入る。
フェルメール夫人に、アトリエの掃除を命じられ、「窓を拭いてよろしいですか? 光が変わりますが?」と問う。
芸術を理解しない夫人との対比がされている。
グリートは陰影、色彩、構図に隠れた天分を持っていた。才能を見出したフェルメールはグリートに遠近法や絵の具の調合を教える。
絵の構図が悪いと考えたグリートは、アトリエでモデルとなった椅子を除けて、陰影を強調する。
フェルメールはこれを見て、描いていた椅子を消し、光と影を付け加える。
引用:Wikipedia
映画という作品の中で、フェルメールの表現した世界が復元されているかのような感覚に陥る。
街の風景
その街を照らす光
室内へ差し込む淡い光
水差しから流れ出る水
テーブルに置かれた食材
その全てが映画として成立しながらも全てのシーンが1枚の絵画として成立している。
”光の魔術師”と言われたフェルメールを再現するかの如く、自然光で撮影されたかのような映像で差し込む光と相対する影の表現や色の質感から構図に至るまで徹底されていて圧巻の一言。
俳優として人間として円熟期にあったコリン・ファースとまだ初々しさの残るスカーレット・ヨハンソンの静の演技が光っている。
この2人の寡黙な演技とそれに寄りそう音楽、絵画と見間違うほどの映像美が作品にセンシュアルな印象を与えてくれる。
個人的には今作は物凄くフェルメールの世界観を再現できていると思っている。
しかし映画の感想としてたまに見るのだが”少女”をスカーレット・ヨハンソンが演じていることについて、忠実に再現するのであればもっと幼い少女じゃないといけないのでは?というもの。
知らない人が多いのかもしれないが、絵画で描かれている少女が「誰か」というのは様々な説がある。
娘のマーリア、妻、恋人、もしくはフェルメール自身の完全なる創作というような説もあるのだが、フェルメールの家族や知人の肖像画も無い上に伝記といったものも残っていないのもあって真相は不明なので、今作はその1つの「説」として考えれば違和感もないと思う。
1つ注意して欲しい点としては、この作品は基本的に”動”ではなく”静”を終始一貫している。
そのために、淡々と世界観や雰囲気重視で展開されていくような物が苦手な人には分かりづらいと感じてしまうと思うので、全くといっていいほど向かない。
逆にこういった雰囲気、世界観、空気感重視の落ち着いた作品が好みの人や、そういう作風を求めている気分の時などには是非オススメしたい素晴らしい作品だ。
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『英国総督 最後の家』感想・紹介・レビュー【独立の苦悩と混乱】
英国総督 最後の家
2017年に公開されたイギリス・インドの歴史ドラマ映画。
監督・脚本をグリンダ・チャーダ、共同脚本をポール・マエダ・バージェスとモイラ・バフィーニが務めた。
出演
- ヒュー・ボネヴィル
- ジリアン・アンダーソン
- マニシュ・ダヤル
- フマー・クレイシー
- マイケル・ガンボン
- サイモン・キャロウ
今作は約300年にわたり続いた英国統治主権移譲を決定し、最後のインド提督として派遣され円滑な独立を目指していたルイス・マウントバッテン卿とその家族を主軸とし移譲が完了するまでの苦悩や、インド・パキスタン・バングラデュが国として成立するまでの様々な混乱、独立までの激動の数ヶ月を描いている。
それだけでなく、それとほぼ同時進行するような形でマウントバッテン卿に仕えていた青年ジートとマウントバッテン卿の娘の秘書をしていた女性アーリアとの恋愛模様も描かれる。
この当時の歴史にあまり詳しくない人でも、観進めていくにつれてどんどん作品に引き込まれていけるような作りになっている。
これは作品とは直接関係ない話ではあるし、実際に体験したことがある人というのもそう多くはないだろうと思うのだが、インドへ旅行する際にビザを取得する手続きをすると貴方の父方の誰々はパキスタンに行ったことがあるか?母方の誰々はあるか?など正直知らないし、行ったことが無いとは思うが・・・と思うような質問や戦争関与についての質問が有ったりする。
なぜこのような質問が現代になっても必要なのかというのも、この作品を観るとその当時の歴史についての知識がなくても理解が出来ると思う。
恐らくはこれからもこのような質問がなくなることはないのだろう。
どれほどの時が経ったとしても、根深く残る国同士の軋轢なのかもしれない。
インドというと、暑そうとかカレーとか人口が多いとか理系の分野で秀でてるというようなイメージしか無い人も多い。
この映画を観る事で、インドという国を知るきっかけになると思う。
序盤のあらすじ
1947年、第二次世界大戦で疲弊したイギリスは300年間支配してきたインドの主権移譲を決定し、独立を円滑に行う使命を帯びたルイス・マウントバッテン卿が最後のインド総督として着任する。
彼が居住する総督官邸では500人の使用人が総督一家の世話を行っていた。
総督官邸に勤める友人ドゥリープの紹介で使用人になった元警官ジートは、マウントバッテンの娘パメラの秘書として働くアーリアを見かける。
ジートは警官時代に出会った囚人アリの世話をしており、彼の娘であるアーリアに想いを寄せていたが、彼女にはアリが決めた婚約者がいた。
引用:Wikipedia
冒頭でも述べたが、インド・パキスタン独立の歴史を知るという意味では良いきっかけになる作品に仕上がっているとは思う。
しかし個人的に残念なのが、当時のインドの実情・実体というものが作品に表現されているかというと若干の疑問・違和感が残る。
そして、映画として成立させるためにという意図もあるのかもしれないが、総督府内や街並みが余りにも綺麗すぎるのも気になる。
その辺りはリアリティと創作物である映画のバランスの取り方ではあるのだが、もうちょっとリアルな映像に寄せても良かったんじゃないかなぁと。
人によってはジートとアーリアの恋愛模様も取ってつけたような演出に見えてしまう部分があるかもしれない。
都合のいいように解釈してしまえば、そういった点も過去の歴史を知るきっかけとして万人が観やすいように要所はしっかりと押さえつつ、重苦しくならない様に映画的要素も盛り込んでいるのでオススメしやすい作品には仕上がっている。
小ネタ
2017年3月3日にイギリスで公開、インドではヒンディー語吹替版が同年8月18日に公開されたが、パキスタンでは上映禁止となった。
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『グッバイ、レーニン!』感想・紹介・レビュー【国の崩壊と母親】
グッバイ、レーニン!
2003年に公開されたドイツのコメディ映画。
監督・脚本をヴォルフガング・ベッカー、共同脚本をベルント・リヒテンベルクが務めた。
出演
- ダニエル・ブリュール
- カトリーン・ザース
- チュルパン・ハマートヴァ
- マリア・シモン
- フロリアン・ルーカス
- アレクサンダー・ベイヤー
- ブルクハルト・クラウスナー
1990年10月3日に起こった東西ドイツ統合後のドイツを舞台とし、庶民の身に起こった悲喜劇を家族像と共に社会風刺も盛り込みつつ、コミカルに描いた今作。
東ドイツ崩壊という大事件を、反体制デモに参加した自分のせいで倒れてしまい未だ病床の母親に知らせない様に知らせない様に主人公が奮闘するという、荒唐無稽と言ってしまえば荒唐無稽な話。
確かに基本的にはコメディタッチで、荒唐無稽なだけに見えるかもしれない。
しかし、それ以外にしっかりとメッセージ性のある作品に仕上がっている。
作品を通して、社会主義という統制された社会への風刺的な意味合いを持っていると視聴者に感じさせたかと思いきや、実は資本主義という物資社会への風刺が秘められている事に気付きハッとさせられる。
社会的なメッセージを押しつけがましい感じを出来るだけ排除して、実際にあった歴史的な出来事を題材として万人が観やすいようにコミカルに描き、映画として成立させている。
現実的には中々その展開は流石に厳しいだろうと思ってしまう部分が無いわけではないが、奇跡的に意識を取り戻した母親にこれ以上辛い思いをさせまいと、愛する母親の為に必死に奮闘する主人公とその周囲の人たちに、胸が熱くなるような部分もあり、観ているといつの間にか主人公に感情移入している自分が居た。
展開のさせ方も変に説明口調になるようなことはないのだが、俳優陣の演技力もあってすんなりとこの作品の世界観の情報が入ってくる。
自分がある程度、この時代の歴史的知識があるからなのかもしれないが、東ドイツの崩壊によって変化していく市民の生活をリアルに描いてるのもあって純粋に分かりやすい。
また、中弛みすることなくラストまでテンポよく駆け抜けるような作りになっているのも、その一因かもしれない。
序盤のあらすじ
東ドイツの首都東ベルリンに暮らす主人公のアレックスとその家族。
母のクリスティアーネは夫のローベルトが西ドイツへ単独亡命して以来、その反動から熱烈に社会主義に傾倒していた。
そんな家庭環境の中、東ドイツ建国40周年記念日である1989年10月7日の夜に、アレックスは家族に内緒で反体制デモに参加、街中で警官ともみあっていた。
それを偶然通りがかったクリスティアーネが目撃。
強いショックから心臓発作を起こして倒れ、昏睡状態に陥る。
彼女は二度と目覚めないと思われたが、8ヶ月後に病院で奇跡的に目を覚ます。
しかし、その時にはすでにベルリンの壁は崩壊、東ドイツから社会主義体制は消え去り、東西統一も時間の問題となっていた。
引用:Wikipedia
人によってはタイトルのイメージからもっと社会的なメッセージを打ち出した作品と、思ってしまうかもしれないが、壁の崩壊や検問の廃止や政治的な内容を描いた作品は沢山存在する。
今作はそういった社会性メッセージの強い映画とは一線を画す内容で、旧東ドイツの体制を支えてきた人たちが、ベルリンの壁崩壊後の統一ドイツという1つの国の中で社会になじめず、様々な事に戸惑っている様子を国の情勢などと共に滑稽に描かれていて、現代における価値観の変化や転換を庶民的なレベルでしっかりと伝わってくる。
果たしてアレックスは、いつまで母親にドイツが迎えた大きな変化を知らせない様にしていられるのか。
コメディ映画として観ても見応えは十分、風刺的な内容を観て国という物や人という物を考えるのも良し。
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『ブラックブック』感想・紹介・レビュー【裏切りと真実】
ブラックブック
2006年に公開されたオランダの戦争サスペンス映画。
監督・脚本をポール・バーホーベンが務めた。
出演
- カリス・ファン・ハウテン
- セバスチャン・コッホ
- トム・ホフマン
- ハリナ・ライン
- ヴァルデマー・コブス
- ドルフ・デ・ヴリーズ
- デレク・デ・リント
1944年、第二次世界大戦時ナチスドイツの占領下にあったオランダを舞台とし、何者かの裏切りにより家族を殺されてしまった若く美しいユダヤ人歌手であるラヘルが、名前を変え姿も変えレジスタンスに身を投じてナチス内部の情報を探っていくさまを描いた今作。
今作の特徴として、善悪の彼岸に身を置くポール・バーホーベン監督らしさが如実に出ているせいかナチスドイツを完全な悪人としては描かず、逆の立場のレジスタンスも善人ばかりの集団としては描いていない。
この作品内の時代、第二次世界大戦下を舞台にしたりナチスドイツをテーマにする作品は幾つも存在する。
その全てとは言わないが、結構な数の作品が表面的な部分だけを見てナチスを批判、ドイツを批判、ただ単純に悪として描くことが多い。
そういった作品とは一線を画す作りになっていて、単なる戦争映画ではないのも大きな魅力の1つ。
主人公のエリスを始め、オランダのレジスタンス、ナチスドイツといったそれぞれの人間の弱さや愚かさを上手く表現している。
冒頭からラストシーンまで色々な立場の人間が複雑に交錯していき、非常にスリリングな展開が続くので、引き込まれてしまえば気付くとそのままラストシーンまで見入ってしまう。
序盤のあらすじ
スエズ動乱直前のイスラエルで教師をしているラヘルは、オランダから観光に来た女性に声をかけられる。
その人物は戦争終結間際のドイツで知り合った人物だった。再会をきっかけに戦時中のつらい思い出を振り返る。
ナチス・ドイツによる占領中のオランダで、ユダヤ人であるラヘルは隠れ家でひっそりと暮らしていたが、ある日、隠れ家が爆撃されてしまう。
難を逃れたラヘルは、偶然居合わせた男の家へ身を寄せるが、そこへオランダ警察であるという男が現れ、すぐにドイツ兵がやってくるため逃げるよう警告する。
引用:Wikipedia
”欲望”
”生存本能”
”醜悪さ”
”欲深さ”
”残酷さ”
”気高さ”
”正義”
”使命”
といった戦時下における人間の愚かさや強さを見事に表現していて2時間25分という時間の中に、ギッシリと詰まった映像になっていると感じた。
当時実際にあったであろう、裏切りや買収にハニートラップはおろか何でも有りな展開もふんだんに盛り込まれている。
そのストーリーの中で主人公を演じたカリス・ファン・ハウテンを始めとした俳優陣がその文字の如く体当たりな演技で素晴らしい作品に昇華させている。
男性を手玉に取ることに長けた彼女の無表情な顔と男性に見せる顔のギャップが凄いのだが、その笑顔も話が進むにつれバリエーションが増えていく。
様々な状況下で見せるその表情が、この作品の全てを物語っているかのようにすら感じる。
注意点としては、今作はあくまで実話ではなく事実に着想を得て製作されたものなので、非現実的な描写も多々ある(ハンカチにクロロホルムとか)ので、観る際はオランダが作るハリウッド的なエンターテインメントサスペンス映画だということは頭に入れておいたほうが良い。
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『シビル・アクション』感想・紹介・レビュー【失った果てに得たものとは】
シビル・アクション
1998年に公開されたアメリカ合衆国の歴史ドラマ。
監督・脚本をスティーヴン・ザイリアンが務めた。
出演
- ジョン・トラボルタ
- ロバート・デュヴァル
- ジェームズ・ガンドルフィーニ
- ダン・ヘダヤ
- ジョン・リスゴー
- ウィリアム・H・メイシー
- キャスリーン・クインラン
- トニー・シャルーブ
1980年代にマサチューセッツ州ウーバンで実際に起きた、環境汚染に対する損害賠償訴訟事件に関わったジャン・シュリクマン弁護士の活動をまとめたジョナサン・ハー原作のノンフィクション作品を原作とし、映画化された今作。
ジョン・トラボルタが演じる弁護士はいわゆる「傷害弁護士」で、何においても裁判を避けて有利な和解に持ち込み、どれだけ示談金を勝ち取るかということだけを身上としているが故に、他の分野の弁護士や判事などからも卑しいハイエナ扱いを受けることが多い。
だが本人たちは気にするどころか、堂々と正義や真実よりも金を尊ぶをモットーとする。
そんな彼が被害者家族に心を寄せ、正義と真実を求め始めていくさまを事実に基づいているというのもあるが、リアルな描写をしつつも映画としてのテンポを保ちつつ仕上げている。
ただ、公害訴訟をテーマとして実話に基づいていると聞くと『エリン・ブロコビッチ』を思い出す人が多いしそれと同じような期待を寄せるかもしれないが、それはあまりオススメしない。
今作は、何処にでもいるような弁護士が巨大企業相手に戦いを挑み、奮闘を重ねた先に勝利が待っているというようなヒーロー物語ではない。
序盤のあらすじ
ボストンで弁護士を開業しているジャン・シュリットマンはある日、ラジオの生番組出演中での法律相談コーナーにかかってきた電話の内容に興味を持つ。
それは、ニューイングランドのある田舎町で起きている大企業による環境汚染問題に関するものだった。
田舎町の健康被害に遭っている住人と企業の和解に持ち込んで多額の報酬を得ようと目論んだジャンはこの話に乗り、住民側の弁護人となって裁判を引き受ける。
しかし、企業側の弁護人ファッチャーの狡猾な術中にはまり敗訴、隠蔽工作の中で僅かな証拠を得る為、弁護士事務所の経費なども裁判関係に投入、スタッフは雇えなくなり、加えて私財までも使い果たしてしまう。
引用:Wikipedia
中盤から終盤にかけてのストーリー展開や、ラストの展開はかなり人を選ぶだろう。
冒頭からこれでもかと”金”というものに執着しているいけ好かない弁護士として話が進むだけに、感情移入出来る人も多くはないし結果的には・・・、だがその結果に対して好意的な感情を持てる人もそこまで多くないだろう。
今作は言ってしまうと、感動や感慨深さなどはほとんどない。
ただただ事実を知る、事件を知る映画として観ることをオススメする。
恐らく映画的というかエンターテインメント的な展開を期待して観ている人が、あまり良くない評価を下すのだと思う。
そういった意味で、取り扱うのが難しい実話なんだと感じる。
決してつまらないということはないのだが、作品を通して分かりやすい見せ場というのはあまり存在しない。
この映画化するには難しい実話の末路を主人公を演じたトラボルタは勿論の事、相手役のデュヴァルの熱演により何とか作品として成立させているといったところだろうか。
派手さは無くひたすら地味ではあるが、周囲に目もくれず勝ち負けという1点だけにこだわり続けた1人の弁護士の話に興味がある人は観てみると良いだろう。
作品の評価
ロバート・デュヴァルが第5回全米映画俳優組合賞助演男優賞を受賞。
同時に第71回アカデミー助演男優賞にノミネート。
コンラッド・L・ホールもアカデミー撮影賞にノミネートされた。
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