『リチャード・ジュエル』感想・紹介・レビュー【英雄と冤罪】
リチャード・ジュエル
2019年に公開されたアメリカ合衆国の伝記ドラマ映画。
監督をクリント・イーストウッド、脚本をビリー・レイが務めた。
出演
- ポール・ウォルター・ハウザー
- サム・ロックウェル
- キャシー・ベイツ
- ジョン・ハム
- オリヴィア・ワイルド
今作は、1997年に雑誌『ヴァニティ・フェア』に寄稿された、マリー・ブレナーの記事『American Nightmare: The Ballad of Richard Jewell』(アメリカの悪夢:リチャード・ジュエルのバラード)を原作として、1996年に行われたアトランタオリンピックで爆発物を発見し多くの人々を救った英雄だったはずの彼が、FBIはおろかマスコミにすら容疑者と見なされた実在の冤罪事件を描いている。
序盤のあらすじ
1996年7月27日、警備員のリチャード・ジュエルはアトランタ五輪の会場近くの公園で爆発物を発見した。
リチャードの通報のお陰で、多くの人たちが爆発前に避難できたが、それでも2人の死者と100人以上の負傷者を出す大惨事となった(避難の最中に心臓発作で亡くなった人間も出た)。
マスメディアは爆発物の第一発見者であるリチャードを英雄として持ち上げたが、数日後、地元紙が「FBIはリチャードが爆弾を仕掛けた可能性を疑っている」と報じた。
それをきっかけに、マスメディアはリチャードを極悪人として糾弾するようになった。
また、FBIはリチャードの自宅に2回も家宅捜索に入り、彼の知人たちにも執拗な聞き込みをするなど常軌を逸した捜査を行った。
引用:Wikipedia
この映画を観ると改めて実感するのだが、流行したてだったり運用初期の制度や仕組みの杜撰なこと杜撰なこと。
現代では当たり前のように使われ、そのおかげで様々な事件の解決や捜査の進展に貢献しているのだが、この事件当時流行していたプロファイルの酷さは凄い。
どんな方法でもいいから何とかして主人公であるリチャードの証拠を引っ張ろうと、捏造するというあってはならない手段さえも事実な上に、それをやってるのが連邦捜査局ぐるみでやってたってなんというジョーク。
勿論、捜査に熱意をもって励んでくれるのは一般市民からしたら有難いことではあるが、それなりの権力と力がある人たちや組織がその熱意の方向性を少しでも間違えた時の恐ろしさといったら・・・。
そんな事実とはとてもじゃないが思えない酷さを含め、冒頭から目を離せない展開で始まったと思えば俳優陣の感情を揺さぶられる熱演。
それら素晴らしい要素が途切れることなく進みラストまで続くという1つの作品としてかなり上手くまとまっている。
ただ、気になる部分がないわけではない。
描かれたことが事実なのかどうかは分からないし、それは一旦置いておく。
作中で実際の関係者である記者のキャシー・スクラッグスがFBI捜査官から情報を得るためにした行為というか描写は、これを描く必要性を少し疑問に思った部分だった。
映画公開時にはキャシー・スクラッグスは故人となっていてこの映画の描写について、反論や意見をすることが出来ない状況だった。
そのような人に対する描写としてはあまり適切なものではなかったような気はする。
勿論それが事実なのかもしれないが、そうだとしてどうしても必要だったとしてもせいぜい匂わす程度で良かったのではと。
実際のシーンに関しては、批評家だったり記者の一部から激しく批判をされていて彼女が所属していたAJCは「記者の描写は衝撃的であり、真実ではない」というような主張もしているので、真実は定かではないが個人的にはどっちだとしても故人をむやみやたらに憶測を呼ぶような描き方は、うーん・・・と思ってしまった。
裏を返せば(事実かどうかは別として)、それだけ丁寧に細かく事件についての描写がなされているので、登場人物の気持ちが手に取るようにわかる。
いわゆる正義が勝つといった単純で分かりやすい物という訳ではないが、どこか危なっかしい主人公が終盤で魅せる怒濤の反撃で視聴者も同じように勝利をかみしめることの出来るような展開は相変わらずクリント・イーストウッドらしいなと感じた。
いわゆるステレオタイプ的な描き方が全くダメって人には向かないと思うが、自身や組織の保身の為であれば道を踏み外し、他人を陥れるだけでは飽きたらず様々な情報の捏造などを行うというのは今までも国や組織や会社に関わらず存在する話で、そこには膨大な数の被害者が居るという事を考えさせられる作品として素晴らしい仕上がりなので1度観てみてはいかがだろうか。
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